第だい5章しょう
中なか田だに点てん在ざいする集しゅう落らく

1 柳やなぎ生うと西にし中なか田だ

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南みなみ仙せん台だい駅えき西にし口ぐち(右みぎが東ひがし口ぐちと連れん絡らくする跨こ線せん橋きょう)

南みなみ仙せん台だい駅えきの西にし側がわにある西にし中なか田だ地ち区くには、新あたらしい店みせや家いえが建たちならび、田たや畑はたけもしだいに宅たく地ちに変かわってきています。

昭しょう和わ47年ねん(1972)に、土と地ちの区く画かくを整ととのえて、新あたらしい道どう路ろをつくり、宅たく地ち化かを進すすめるための組くみ合あいができ、昭しょう和わ56年ねんまでにやく97ヘへクくタたーールるの土と地ちが整ととのえられました。昭しょう和わ51年ねん(1976)には西にし中なか田だ市し営えい住じゅう宅たくなどもでき、西にし中なか田だに住すむ人ひとの数かずは、どんどんふえ続つづけています。

むかしの西にし中なか田だは、田たや畑はたけが広びろとひろがり、数すう軒けんの農のう家かが点てん在ざいしていました。今いまの西にし中なか田だ小しょう学がっ校こうの東ひがし側がわには、きれいな水みずのわき出でる池いけがあって、そこから四し方ほうに用よう水すい路ろが走はしっていました。したがって、農のう家かの人ひとが多おおかったのですが、今いまは、会かい社しゃなどにつとめに出でる人ひとがほとんどです。朝あさの南みなみ仙せん台だい駅えきは、つとめや学がっ校こうに通かよう人ひとでにぎわい、国こく道どう4号ごう線せんも中ちゅう心しん部ぶへつとめに出でる車くるまで大たい変へんこみあいます。

区く画かく整せい理り前まえの西にし中なか田だ・柳やなぎ生う

昭しょう和わ58年ねんには、西にし中なか田だ小しょう学がっ校こうができ、広ひろい道どう路ろや公こう園えんなど計けい画かく的てきな開かい発はつが進すすめられ、きちんと整ととのえられたまちづくりが行おこなわれています。新あたらしく、柳やなぎ生う地ち区くの47ヘへクくタたーールるも、家いえなどを自じ由ゆうに建たてることのできる地ち域いきに加くわえられました。将しょう来らいは、戸こ数すう4000戸こ、人じん口こう12000人ひとくらいのまちになるのではないかと考かんがえられており、ますます住じゅう宅たく地ちとしての役やくわりが強つよくなることでしょう。

柳やなぎ生うの名な取とり川がわにそった畑はた地ちでは、野や菜さい作づくりがさかんです。おもに、じゃがいも、にんじん、ほうれんそう、だいこん、キきャゃベべツつ、きゅうり、はくさいなどが作つくられ、中なかでもじゃがいもは、「仙せん台だい馬ばれいしょ」として、東とう北ほく各かく県けんや東とう京きょう方ほう面めんにもおくられています。柳やなぎ生うで作つくられた野や菜さいは、それぞれの農のう家かから柳やなぎ生う集しゅう荷か所しょへ運はこばれてきます。そこでまとめられた野や菜さいは、名な取とり市しにある野や菜さい集しゅう送そうセせンんタたーーに運はこばれたり、直ちょく接せつ仙せん台だい中ちゅう央おうおろし売うり市し場じょうへおくり出だされたりします。

伝でん統とうを受うけつぐ柳やなぎ生うの和わ紙しづくり

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藩はん政せい時じ代だいから行おこなわれていた柳やなぎ生うの和わ紙し作づくりは、今いまもなお、受うけつがれています。

今いまは、ただ一いっ軒けんだけとなった佐さ藤とうさんの家いえから、朝あさ早はやくから紙かみすきの音おとが聞きこえてきます。冷つめたい水みずを使つかっての作さ業ぎょうは、本ほん当とうに大たい変へんです。原げん料りょうの楮こうぞは、以い前ぜんは柳やなぎ生うあたりの畑はたけでさいばいされていましたが、今いまは、遠とおく福ふく島しまの方ほうから買かい入いれています。このごろでは、原げん料りょうを手てに入いれることもしだいにむずかしくなってきています。

佐さ藤とうさんの家いえでは、菓か子しのほうそう紙しや松まつ川かわダだルるマまの型かた紙がみに使つかわれる紙かみを作つくっています。また、注ちゅう文もんによっては、はがきや、名なしも作つくっています。多おおくの人ひとに和わ紙しを使つかってもらい、和わ紙しのよさを知しってもらいたいものです。しかし、後あとをつぐ人ひとがいないのが、なやみだということです。400年ねんもの長ながい間あいだ続つづいている伝でん統とうを、たやしたくないものです。

柳やなぎ生う幼よう児じ園えん(旧きゅう柳やなぎ生う分ぶん校こう)右みぎ端は柳りゅう生しょう寺じ

小こ西にし利り兵へ衛え(1807~1881)

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河かわ原ら町まちの商しょう店てん(荒あら物もの屋や)の七なな代だい目め。自じ分ぶんの店みせで、扱あつかっていた商しょう品ひんを改かい良りょうして、それを新あたらしく作つくる方ほう法ほうをつぎつぎに生うみ出だしました。柳やなぎ生うの紙かみを傘かさ紙かみに改かい良りょうしたり、信しん州しゅう(今いまの長なが野の県けん)から紙かみ職しょく人にんを招まねいて元もと結ゆいの紙かみの生せい産さんを始はじめさせました。また、盆ぼんちょうちん用ようの染そめ美み濃の紙しを作つくるのにも成せい功こうし、柳やなぎ生う和わ紙しの発はっ展てんのもとをつくりました。

柳やなぎ生う・柳りゅう生しょう寺じにある小こ西にし利り兵へ衛え頌しょう徳とく碑ひ

2 中なか田だ町まちと前まえ田だ

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中なか田だ町まちは仙せん台だい市しの南なん部ぶにあり、地ち区くの北きた側がわには、名な取とり川がわが川かわ幅はばを大おおきくひろげて流ながれています。地ち区くの南みなみ側がわは地じ続つづきで名な取とり市しに続つづいているため、むかしは名な取とり郡ぐんの中なかにありました。仙せん台だい市しに編へん入にゅうしたのは今いまから45年ねんほど前まえのことですから、みなさんのおじいさんやおばあさんは名な取とり郡ぐんとよばれていたころの中なか田だのことをよくおぼえていると思おもいます。

この中なか田だという地ち名めいは、田たんぼの中なかの集しゅう落らくというような意い味みでつけられたと思おもわれますが、古ふるい記き録ろくを調しらべてみると、今いまから450年ねんほど前まえの記き録ろくに、「十じゅう貫かん九きゅう百ひゃく文もん 中なか田だ」とあるのが一いち番ばん最さい初しょといわれています。そのころ、中なか田だは名な取とりにあって、米こめが109石こく(約やく252俵ひょう)ほどとれる土と地ちだったということがわかります。

その後あと、中なか田だは名な取とり郡ぐん前まえ田だ村むらの中なかに入はいりましたが、江え戸ど時じ代だいになって、名な取とり川がわの南みなみ側がわに宿しゅく場ばが作つくられると、宿しゅく駅えきの名な前まえとして、また中なか田だがつかわれるようになりました。

明めい治じ22年ねん(1889)には近ちかくの四よっつの村むらがいっしょになって、名な取とり郡ぐん中なか田だ村むらとよばれるようになりました。村むら役やく場ばや小しょう学がっ校こうも地ち区く内ないにつくられて、名な取とり川がわ南なん岸がん地ち区くの中ちゅう心しんとして発はっ展てんしてきました。さらには、昭しょう和わ54年ねん7月がつから、それまで先せん祖ぞから永ながく親したしんできた住じゅう所しょの地ち名めいは使つかわれなくなり、中なか田だ○丁ちょう目め○番ばん○号ごうと表あらわされるようになりました。

みなさんのお父とうさんやお母かあさんが小しょう学がっ校こうに行いっていたころの町まちのようすや学がっ校こうのようすを写うつした写しゃ真しんがあります。国こく道どう4号ごう線せん(旧きゅう街かい道どう)ぞいに家いえがたくさん集あつまっているのがよくわかります。道どう路ろに直ちょっ角かくに家いえが並ならんでいるのは、宿しゅく場ば町まちの特とく徴ちょうです。

校こう庭ていの左ひだりが中なか田だ中ちゅう学がっ校こう、右みぎが中なか田だ小しょう学がっ校こう(昭しょう和わ30年ねん代)

学がっ校こうは集しゅう落らくの外そと側がわに建たてられています。小しょう学がっ校こうは北きた側がわに二に列れつに並ならんでおり、校こう庭ていをはさんで南みなみ側がわに中ちゅう学がっ校こうが一いち列れつに並ならんで建たっています。学がっ校こうのまわりには家いえがあまりなく畑はたけになっています。今いまの学がっ校こうのまわりのようすと比くらべるとずい分ぶんちがいます。

校こう庭ていには、トとラらッっクくの中なかに桜さくらの木きがはえているのがわかります。これは、大たい正しょう4年ねん(1914)に数すう十じっ本ぽん植うえたものだそうですが、現げん在ざいはたった3本ぼんしか残のこっていません。

70年ねんもの長ながい間あいだ、中なか田だ小しょう学がっ校こうの子こどもたちを見み守まもってきた、この桜さくらの木きを、中なか田だ小しょう学がっ校こうのシしンんボぼルるとしてたいせつに守まもっていきたいものです。

中なか田だ小しょう学がっ校こうの桜さくら

ところで、中なか田だ町まち地ち区くの人ひと々びとは、たいへんスすポぽーーツつずきで、大たい正しょう15年ねん頃ごろ中なか田だ地ち区くの青せい年ねん団だんが、名な取とり郡ぐん大たい会かいで3年ねん連れん続ぞく優ゆう勝しょうしたこともありました。いまは体たい協きょうやスすポぽーーツつ少しょう年ねん団だんなどの活かつ動どうがさかんです。このスすポぽーーツつ少しょう年ねん団だんは20年ねん前まえにつくられましたが、仙せん台だい市しでも最さい初しょの方ほうなのだそうです。こういう土ど台だいもあって中なか田だ小しょう学がっ校こうは健けん康こうづくり教きょう育いくが熱ねっ心しんに行おこなわれていました。昭しょう和わ28年ねん、29年ねん、30年ねん(1955)と、3年ねん連れん続ぞくで仙せん台だい市し健けん康こう優ゆう良りょう校こうに選えらばれました。今いま、校こう庭ていの片かたすみに建たっている健けん康こう塔とうは、そのことを記き念ねんして、PぴーTてぃーAえーや地ち区くの有ゆう志しの人ひとたちが建たてたものです。このブぶロろンんズず像ぞうは、仙せん台だいが生うんだ有ゆう名めいな彫ちょう刻こく家か翁おきな朝きょう盛せい先せん生せいの作さくです。

中なか田だ小しょう学がっ校こうの「健けん康こうの塔とう」

現げん在ざい、中なか田だ小しょう学がっ校こうの校こう庭ていには夜や間かん照しょう明めいの設せつ備びがもうけられ、冬ふゆの間あいだをのぞき、毎まい晩ばんのようにスすポぽーーツつを楽たのしむ人ひと々びとに利り用ようされています。

仙せん台だい市しが大おおきくなるにつれて、中なか田だ地ち区くにもたくさんの人ひとたちが移うつり住すむようになりました。そのため、野や菜さいの大だい生せい産さん地ちだった中なか田だのおもかげは日ひましにうすれてきています。農のう家か戸こ数すうは190軒けんありますが、専せん業ぎょう農のう家かは、そのうちの10軒けんほどになってしまいました。

また、宿しゅく場ばから発はっ達たつした商しょう店てん街がいは、仙せん台だい市しでもはやくに商しょう店てん会かいがつくられ、にぎわってきましたが、バばスすや鉄てつ道どうを利り用ようして仙せん台だい市しの中ちゅう心しん部ぶにかんたんに行いけることや、道どう路ろがせまく駐ちゅう車しゃができないこと、バばイいパぱスすぞいに大おお型がたスすーーパぱーーがつぎつぎにつくられたりしたことなどから、お客きゃくがしだいに減へってきており、商しょう店てん会かいの人ひと々びともこまっています。

人じん口こうが増ふえるにつれて、地ち区くのまとまりがうすくなることを心しん配ぱいする人ひと々びとの間あいだから、新あたらしいふるさと作づくりの声こえがあがり、地じ元もとの商しょう店てん会かいの人ひと々びとや中なか田だ小しょう学がっ校こうのPぴーTてぃーAえーが中ちゅう心しんになって、中なか田だ夏なつまつりが行おこなわれるようになりました。子こども会かいごとに作つくった子こどもみこしが町ちょう内ないをねり歩あるき、小しょう学がっ校こうの校こう庭ていには夜よ店みせがつくられ、盆ぼんおどりが行おこなわれます。お盆ぼんでふるさとに帰かえって来きた人ひとたちも、ふるさとの一いち夜やを楽たのしんでいます。

盆ぼん踊おどり大たい会かい 中なか田だ小しょう校こう庭てい

子こどもみこし 中なか田だ三さん丁ちょう目め付ふ近きん

タたイいトとルると文ぶんは「広こう報ほうなかだ」より抜ばっ粋すい

また、公こう民みん館かんでは、健けん全ぜんな青せい少しょう年ねんの育いく成せいと明あかるい町まちづくりのために、地ち域いきぐるみ清せい掃そう活かつ動どうをすすめています。親おや子こがいっしょになって働はたらいたり、小しょう・中ちゅう学がく生せいの心こころのつながりを育そだて、一ひと人りひとりの子こどもに社しゃ会かい参さん加かのよろこびをもたせようとするものです。地ち区くに住すむわたしたちは、祖そ先せんの残のこしてくれたものを大たい切せつにしながら、新あたらしい中なか田だの地ち域いきづくりに、自じ分ぶんのできるところから参さん加かしていきたいものです。

3 袋ふくろ原ばら地ち区く

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袋ふくろ原ばらは中なか田だ地ち区くと四し郎ろう丸まるの間あいだにあって、仙せん台だいバばイいパぱスす中なか田だ二に丁ちょう目め交こうさ点てんから東ひがしに1キきロろメめーートとルるほど入はいった地ち域いきです。昭しょう和わ34年ねん(1959)袋ふくろ原ばら平ひら淵ぶちに初はじめて市し営えい住じゅう宅たくができました。その後あと住じゅう宅たくが東ひがしの方ほうにむかってのびるにしたがい、これまでの袋ふくろ原ばらは水すい田でんや畑はたけの多おおいところでしたが、それがどんどん宅たく地ちにかわり、今いまでは、他ほかの地ち区くからたくさんの人ひとが入はいってきて住すむようになっています。

住すんでいる人ひと達たちの職しょく業ぎょうをみるとサさラらリりーーマまンんが多おおく、全ぜん体たいの69.9パぱーーセせンんトとにもなり、農のう業ぎょうは1.6パぱーーセせンんトととわずかで、クくラらスすに一ひと人りぐらいです。

住すんでいる人ひと達たちの本ほん籍せき地ちを調しらべてみると、宮みや城ぎ県けん内ない各かく地ちはもちろんのこと、東とう北ほく六ろく県けんをはじめ、遠とおく関かん東とうや関かん西さいから来きている人ひとびともたくさんいることがわかります。

地ち域いき内ないには、奈な良ら時じ代だいの住じゅう居きょ跡あとである後あと河がわ原ら遺い跡せきや、内うつ手て遺い跡せきなどがあり、歴れき史しのあるところです。名な取とり川がわ河か川せん敷しきでは大おお塚つか山さん古こ墳ふんが見みられます。この古こ墳ふんに登のぼって北きたの方ほうを眺ながめると、昔むかしは遠とお見み塚づか古こ墳ふんが見みえたといわれています。

内うち手ての宝ほう林りん寺じは、東ひがし本ほん願がん寺じの末まつ寺じとして480年ねん前まえにつくられた由ゆい緒しょある寺てらで、庭にわのみごとなキきャゃラらボぼクくやチちャゃボぼヒひバばは有ゆう名めいで、市しの保ほ存ぞん樹じゅ木もくにもなっています。

袋ふくろ原ばら小しょう学がっ校こう前まえバばスす停ていから信しん号ごうを北きたへ北きたへ入はいると、八や坂さか神じん社じゃがあります。お宮みや、半はん鐘しょう(火ひの見みやぐら)、公こう会かい堂どう(集しゅう会かい所しょ)や広ひろ場ばなど昔むかしの姿すがたを残のこしています。昭しょう和わのはじめころ、毎まい年としのようにつづいた凶きょう作さくを地ち域いきの人ひと々びとが、助たすけ合あって克こく服ふくしようとの願ねがいをこめて建たてられたものです。広ひろ場ばには、このことを後あとの人ひと々びとにつたえるための石せき碑ひがあります。

八や坂さか神じん社じゃと袋ふくろ原ばら集しゅう会かい所じょ

八や坂さか神じん社じゃ前まえの記き念ねん碑ひ

袋ふくろ原ばらでは、新あたらしい住じゅう宅たくの間あいだには、広ひろい庭にわや納な屋やのある農のう家かが見みられます。これらの古ふるい建たて物ものと新あたらしい建たて物もの、商しょう店てんなどがうまく調ちょう和わして、自し然ぜんにながめられるのも袋ふくろ原ばら地ち区くの特とく色しょくのひとつとなっています。

4 四し郎ろう丸まる地ち区く

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四し郎ろう丸まるは仙せん台だい市しの南なん東とうの方ほう向こうにあり、北きたには名な取とり川がわが流ながれ、南みなみは名な取とり市しと接せっし、東ひがしは東ひがし四し郎ろう丸まるをへて、太たい平へい洋ようへと続つづく、海かい抜ばつ平へい均きん5メめーートとルるの平へいたん地ちです。

四し郎ろう丸まるというめずらしい地ち名めいは、どんなところからきたのでしょうか。いろいろな説せつがありますが、むかし、名な取とり四し郎ろうという人ひとが、今いまの善ぜん徳とく寺じのあたりに舘やかたをかまえていました。その舘やかたを四し郎ろう丸まるとよんでいたそうです。それが、やがて地ち名めいになったのだといわれています。

なお、丸まるとは城しろのことをさします。

四し郎ろう丸まる小しょう学がっ校こうの南みなみを、十じゅう二に郷ごう用よう水すいの浜はま掘ぼりが流ながれています。この掘ほりにそって昭しょう和わ30年ねんごろまでは南みなみ側がわ一いっ帯たいに杉すぎ木こ立だちのいぐねで囲かこまれ、広ひろい庭にわを構かまえる100戸こほどの農のう家かが見みられ、その前ぜん方ぽうに閖ゆり上あげの「アあンんドどンん松まつ」を遠とおく眺ながめて美び田でんが広ひろがり、北きた側がわには名な取とり川がわの川かわ岸ぎしまで、きれいに耕たがやされた野や菜さい畑ばたけが続つづいていました。

四し郎ろう丸まるは、古ふるい歴れき史しのある地ち区くです。遺い跡せきや古ふるい用よう水すい路ろもたくさん残のこされています。とりわけ150年ねんも続つづいている「四し郎ろう丸まる壮そう年ねん会かい」は、すばらしい会かいです。

この会かいは、天てん保ぽう5年ねん(1834)に村むらおこしのため2、30歳さいの村むら人ひとたちが、神しん明めい講こうという会かいをつくったのがはじまりです。

洪こう水ずいや火か事じから村むらを守まもる仕し事ごとをして地ち域いきのためにつくしてきました。この会かいのおかげで落おち合あいの渡わたしが昭しょう和わ41年ねん4月がつまで続つづけられました。四し郎ろう丸まる小しょう学がっ校こうにある二にの宮みや金きん次じ郎ろう像ぞうは、昭しょう和わ12年ねん(1937)につくられましたが、これも壮そう年ねん会かいの数かず知しれない遺い産さんの一ひとつです。

150周しゅう年ねんを祝いわう四し郎ろう丸まる壮そう年ねん会かい(昭しょう和わ60年ねん11月がつ)

四し郎ろう丸まるでは、昭しょう和わ25年ねんに、市し営えいバばスすが開かい通つうし、昭しょう和わ40年ねんには水すい道どうもひかれましたが、このころから地ち域いきの様よう子すが大おおきく変かわりました。住じゅう宅たくは急きゅうに増ふえ、昭しょう和わ40年ねんには市し営えい住じゅう宅たくができたので、100戸こから400戸こになり、10年ねん後あとには2500戸こと6倍ばいにもなりました。

今いま、下げ水すい道どうをつくったり道どう路ろを広ひろげたり、また市し営えい住じゅう宅たくを建たて直なおすことも計けい画かくされています。これからの四し郎ろう丸まるは、ますます住すみよくなっていくと思おもわれます。

5 東ひがし四し郎ろう丸まる地ち区く

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名な取とり川がわが太たい平へい洋ようにそそぐ河か口こうから堤てい防ぼう沿ぞいに上じょう流りゅうへ5キきロろほどのぼったところに、昭しょう和わ57年ねん4月がつ(1982)開かい校こうした東ひがし四し郎ろう丸まる小しょう学がっ校こうがあります。開かい校こうの前まえの年ねん、中なか田だ東とう部ぶ地ち区くの町ちょう内ない会かいと市し教きょう育いく委い員いん会かいとで話はなし合あい、それまでの四し郎ろう丸まる学がっ区くの中なかほどに境さかいの線せんをひき、東ひがしと南みなみが名な取とり市しに、北きたは名な取とり川がわに囲かこまれた東ひがし側がわの地ち区くを東ひがし四し郎ろう丸まる学がっ区くにしました。

学がっ校こうの住じゅう所しょは、四し郎ろう丸まる字あざ昭しょう和わ北きた一いち番ばん地ちですが、このあたりには、昭しょう和わ前まえ・中なか・東ひがし・南みなみ・という地ち名めいがありますが、これは昭しょう和わ33年ねんにそれまで不ふ便べんだった田たを圃ほ場じょう整せい備び工こう事じをして新あたらしく字じの名な前まえをつけたものです。見み渡わたすかぎり整せい然ぜんと広ひろがる田たんぼは今いまでも市し街がい化か調ちょう整せい区く域いき(自じ由ゆうに家いえなどを建たてることのできない地ち域いき)になっていて、四し季き折おり々おりの野や鳥ちょうが飛とび回まわっています。学がっ区くの東とう端たんに尺しゃく丈じょう島じまという地ち名めいがありますが、この辺へん一いっ帯たいは大おお昔むかし海うみだったことをものがたるものです。

閖ゆり上あがり大おお橋はしとアンドンあんどん松まつ、右みぎ上うえが尺しゃく丈じょう島じま

地じ元もとの農のう家かで、昭しょう和わ30年ねん頃ごろまで使つかっていた農のう具ぐや、生せい活かつ道どう具ぐが東ひがし四し郎ろう丸まる小しょう学がっ校こうの郷きょう土ど資し料りょう室しつにいま展てん示じされています。

昭しょう和わ40年ねん(1965)ころに市し営えい住じゅう宅たく団だん地ちがつくられてからは急きゅうににぎやかになり、市し営えいバばスすも終しゅう点てん四し郎ろう丸まる線せんのほかに東ひがし四し郎ろう丸まる線せんバス停ていもでき、本ほん数すうもふえました。

そのころから病びょう院いんや商しょう店てんができ始はじめ、市しの公こう設せつ市いち場ばや、大おおきなタたクくシしーー会かい社しゃもできて、朝あさは仙せん台だい市し内ないへ向むかう通つう勤きん車しゃやタたクくシしーーで、道どう路ろは急きゅうにこみ出だしました。ここにある落おち合あいの樋ひ管かんは、それまで大おお水みずの多おおかった九きゅうケか村そん掘ぼりと名な取とり川がわの水みずの量りょうをかげんするために昭しょう和わ28年ねんにつくられました。

九くヶか村そん堀ぼり(手て前まえ)と公こう設せつ市いち場ば

昭しょう和わ9年ねんの大だい凶きょう作さくのときに建たてられた郷ごう倉そう
(四し郎ろう丸まる浜はま堀ぼり)

また、史し蹟せきとしては落おち合あい観かん音のんや善ぜん徳とく寺じ、蓮れん光こう寺じなどのむかしからのお寺でらや、戸との内うち遺い跡せき、弁べん天てん囲がこい古こ墳ふん、神しん明めい遺い跡せき、城しろ丸まる古こ墳ふんなどの遺い跡せきもあります。

落おち合あいという地ち名めいは、広ひろ瀬せ川がわと名な取とり川がわとの合ごう流りゅう点てんを意い味みし、そこには茅かや葺ぶき屋や根ねの落おち合あい観かん音のん堂どうがあります。これには次つぎの伝でん説せつがあります。仙せん台だい藩はん主しゅ伊だ達て政まさ宗むねが大だい事じにしていた十じゅう一いち面めん観かん音のんが、名な取とり川がわの洪こう水ずいで流ながされそうになったものを、このあたりでかにがたくさん集あつまって、流ながれ出だすのをふせいだということです。今いまでもかにの絵え馬まを奉ほう納のうして願ねがい事ごとをするならわしが残のこっています。

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