だいしょう
なかのむかしといま

1 なかれき

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わたしたちのんでいるなかは、ふるくから「とりさと」とよばれて、とおみやこにまでられていました。それで、なかのあちこちには、めいしょきゅうせきがたくさんのこっています。これらのれきでんせつをいつまでもわすれないようにしようとねがって、ひとびとが「とりさと」ときざんだせきなかろくちょうこくどうごうせんぞいにてました。しかし、こうしたせきやむかしのくらしのようすをつたえるもののおおくが、すごされ、わすれられようとしていることは、とてもざんねんなことです。そこで、いまのこなかれきをもういちほりおこして、わたしたちのせんをしのんでみたいとおもいます。

とりさと」のなかろくちょう

(1) ふんのつくられたころ

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のうぎょうなかに、こんごうかいづかみられます。おおむかしは、そのあたりまでうみはいりこんでいたわけです。ひとびとは、たかだいんで、さかなかいをとったり、けものをつかまえたりしてくらしていたとおもわれます。

やがてうみみずがひいてなかりくになりますがとりがわがたびたびおおみずになるので、なかなかひとめませんでした。

とりがわぜんていぼうだかくなったところ)がつくられると、これまでのじめじめしたは、すいでんにするのにてきとうなところとなりました。そこにひとびとがみつくようになったのが、いまから2000ねんほどまえのことといわれています。そのくらしのあとが、せきとしていまほりされています。そのひとつがくりせきです。

くりせき」にっている西にしなかしょうがっこう

このせきは、げんざい西にしなかしょうがっこうこうになっていますが、いまからおよそ1300ねんまえのものといわれています。せきはっけんされたのは、40ねんまえのことですが、くわしい調しらべはしていませんでした。その西にしなかかくせいはじめられたため、3かいにわたってくわしい調ちょうおこなわれました。そのけっか、18けんのすまいのあとと、たくさんのなどがみつかりました。このは「くりがこいしき」とよばれ、つくられたねんだいめるもとになるものです。いっしょにほりされたぼうすいしゃいとをよりわせるどう)は、このほうが、そのころ、ほんちゅうしんだったけんなどともかかわりいをしめすだいなものです。

くりせきたてあなじゅうきょせきしゅつひん

(2)じょうがつくられたころ

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くりせきおなねんだいに、大和やまとちょうていいまけんほう)は、みやけんなんつのくにをつくり、そのほうひとびとをおさめました。とりがわむかがわにあるこおりやませきは、そのころの大和やまとちょうていやくしょのあったところではないかといわれています。

じんがんねん(724)になって、大和やまとちょうていは、きたまもりをかためるために、やくしょじょうにうつしました。このやくしょこくとよばれていました。

じょうこくがつくられてからも、とうほくほうひとびとは、大和やまとちょうていにそむきつづけました。そのため、ちょうていがわでは、とりぐんだんとかたまつくりぐんだんなどとよぶぐんたいをつくって、じょうさくまもらせました。へいは、それぞれのからあつめられましたが、かりされたむらびとにとっては、さぞたいへんごとだったろうとおもいます。

こおりやませきはっくつ調ちょうこおりやまちゅうがっこうきん

(3) おおきなたてがつくられたころ

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やがて、とうほくほうでのちょうていちからよわまってくると、ほうには、かねったものがあらわれてきました。そのひとたちは、ぶんしろたてをきずき、ひとびとをおさめました。なかにはろうまるたてぜんとくきん)、まえしきなかむらじんじゃきん)、まえたてなかろくちょうかきぬまさんたく)のみっつのたてがあったとつたえられています。

まえたてあとなかろくちょう

そのなかのひとつ、まえたてについて、つぎのようなつたえがのこっています。

いまからおよそ750ねんまえきゅうしゅうなかがわよしうじというひとが、わけあってまえながされてきました。よしうじつまは、どもとおとものものれてつのくにむかいました。とちゅうかいぞくにい、つまだけがどうやらとりさとにたどりつくことができたということです。のち、ゆるされてかえときとくをしてくれたひとに、かきぬまただよしあたえてりました。げんざいまえたてあとんでいるかきぬまさんは、そのそんだということです。
じころ、いたといって、せんようするためのせきがたくさんつくられました。とくに、なかからとりにかけては、けんないでもいたおおところとしてられています。いたは、かわからっていしに、あんしんしてねることをねがうことばや、んだひとのめいふくをいのることばをきざんで、てらひとどおりのおおみちばたにたてたものです。ぜんは、くまどうだいもんやまのやぶのなかで、たくさんみられました。いまでも、みちばたでみかけることがあります。こうしたことは、そのころのひとびとのくらしが、しんこうつよむすびついていたことをしめしています。

ぶんざいとなっているいかづちいまだいまもひとびと

(4) せんだいじょうがつくられたころ

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けいちょう(1603)、まさむねは、それまでせんだいとよばれているめいいませんだいあらためました。そして、あおやましろをきずき、じょうまちをつくりました。じょうない)とよばれたのは、みなみほうではかわまちまでで、ながまちなかとりぐんなかはいっていました。そのころのなかには、ろうまるむらふくろばらむらまえむらやなぎむらよっつのむらがありました。

ばくさんきんこうたいというきまりをつくると、まさむねかなければなりません。そのため、どうなおしたり、やすんだりとまったりするための宿しゅくをつくったりするひつようがでてきました。そこで、けいちょう17ねん(1612)にはながまちに、つぎねんにはなかにそれぞれ宿しゅくをつくりました。

なか宿やどかいどうぞいに、いまなかていぼうバスていりゅうじょあたりからみなみよんちょうじゅうななけん(およそ463)のあいだで、みちりょうがわに98けんいえちならんでいたそうです。

宿しゅくには、ちょうをおさめるためのやくにんや、したばたらきをするにんなどのほかに、かごやうまようしていました。また、たびびとあいにする宿やどちゃなどもありました。やがて、たびをするひとちょうちかくにひとびとのためのみせが、しだいにおおくなって、げんざいなかしょうてんがいのもとができたのです。このように、なか宿やどは、だいみょうぎょうれつたびびとでにぎわっただけでなく、ちかくにむ、むらひとびとのものをするしょでもあったわけです。

 かんしょおう かわむらこうはち
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なかいちちょうに、ほうせんというおてらがあります。このてらは、だいからつづいていますが、いりぐちに、かんしょねんがたっています。このせきは、なかいちちょうかわむらさんのせんかわむらこうはちおうだいわりごろあたたかいほうでしかとれないとわれていた「さつまいも」を、しんのすえ、とうほくほうはじめてつくるのにせいこうしたことをねんしてたてられたものです。こうはちおうは、めいねんに82さいでなくなりましたが、むらびとからはこうせきをたたえて、のちのちまでかんしょおうとあがめられてきました。その、さつまいもは、のうでさかんにさいばいされるようになりました。これはのうにとっておおきなしゅうにゅうになるとともに、ききんのときのそなえにもなったのです。このときから、なかは、さつまいもとそのなえさんとしてゆうめいになりました。

かわむら家につたわる「かんしょおうさん

 ろうまるんだめい すがばいかん
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だいに、わたなざんたかあいがんならんでなんさんだいいえひとげられているすがばいかんろうまるしゅっしんです。ばいかんぶんねんかん(1804~1818)にかつやくしたで、とおながさきまででかけてき、ちゅうごくじんこうなんべんきょうをしました。かれいっしょうどくしんとおし、いつもぶくろどうれてたびをしたが、ちがってくるとふではしらせ、これをひとびとがるあたえていました。

げんざいせんだいはくぶつかんにあるばいかんさんすいは「かたびらばいかん」とばれゆうめいである。はかは、しんてらこうしょううんにあり、「ばいかんさんじんはか」のがきざまれています。

なお、ろうまるわたどうすがいち右衛もんばいかんそんといわれています。

ろうまるしょうがっこうかかげられてある
すがばいかんしょうぞう

(5) あたらしいなかになって

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ほんめいしん、(いまからおよそ120ねんまえ)によってなかわりました。その、しばらくのあいだは、なかのしくみがととのわなかったので、なかむらのよびなんわりました。めい22ねん(1889)になって、ろうまるむらふくろばらむらまえむらやなぎむらよっつのむらがひとつになって、なかむらまれました。このめいは、とりさとちゅうしんというをもっているのではないかともわれています。そのとうは、りくぜんのくにとりぐんなかむらとよばれ、ぐんやくしょながまちに、むらやくはいまのなかさんちょうにおかれました。

そのしょう16ねん(1941)に、なかむらせんだいがっぺいしました。よびも、せんだいなかまちせんだいろうまるというふうにわりました。

なかいちちょうにあったていひょう
めい22ねんてられた。

そのころ、なかじんこうは、5589にんでした。ところが、なかのあちこちにじゅうたくがつくられて、じんこうがどんどんふえ、げんざいは、35000にんにもなっています。このようにじゅうたくができ、じんこうがふえるにつれて、がっこうつぎにてられました。げんざい、このないには、しょうがっこうこうちゅうがっこうが2こうあります。じんこうのふえかたによっては、もっとがっこうつだろうとかんがえられます。

しょう23ねんごろのながまちなかのようす
おおむらさかえちょ
しゃかいどうろくより

はんせいだいながまちじょうせんだいとは、ひろがわをへだてたのうそんさいきょうきゅうであったとどうに、りくかいどう宿しゅくまちでもあった。それがしょうねんがつせんだいがっぺいになると、だいこうじょうたいとしてはったつし、えんとつがたち、すすやけむりによごれてしまった。
それがだいみなみび、あたらしいけんちくだんだんとつぎされていった。
とりがわは、きょねんすいがいのあと。じゃをとるふねていぼういだかれたはたけ
ごいをくむぎっしゃしゃなんだいもそろってせんだいかけていく。しゃぎっしゃと、どちらがおおかったのだろう。
かわわたってすぐのむかいかわらくかいどうにそったしゅうらくである。かじや、ぐるませいぞうちいさなこうじょうさいしゅうしょ、こうしたものがつ、せんだいへのさいきょうきゅうであったむかしながまちのはたらきを、いまはなかがはたしている。

こめつくり
たねまきからしゅうかくまでのぎょうえが

ぶんせいねんとりぐんろうまるむら

2 しだいにふえてきたがっこう

(1) めいだいがっこう

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だいわって、めいなかになると、きょういくかたおおきくわりました。それまでは、あるいちひとしかはいれなかったてらはやめて、どんなひとでもはいることのできる、がっこうをつくることになりました。なかには、三十九さんじゅうきゅうばんしょうがっこう四十よんじゅうばんしょうがっこうこうてられました。それは、めいねん(1873)のことです。三十九さんじゅうきゅうばんしょうがっこうろうまるそんに、四十よんじゅうばんしょうがっこうは、まえむらほうせんたてものをかりてはじめたのです。これが、なかがっこうのはじまりです。

ほうせんなかいっちょう

そのころの四十よんじゅうばんしょうがっこうどうすうは100にんぐらいだったそうですが、ほんとうにがっこうかよったのは、それほどおおくなかったようです。べんきょうすることも、み、き、そろばんがおもで、てらだいとあまりわっていません。

めい10ねん(1877)になって、っているしょわり、こうめいを、三十九さんじゅうきゅうばんしょうがっこうけいもうしょうがっこうに、四十よんじゅうばんしょうがっこうぜんしょうがっこうあらためられましたが、そのがっこうめいばれるようにかわりました。

めい22ねん(1899)には、あたらしくちょうそんせいがしかれました。なかでも、やなぎまえふくろばらろうまるよっつのむらがひとつにまとめられて、なかむらとなりました。そんないには、なかじんじょうしょうがっこうと、あたらしくめい17ねん(1884)にてられたふくろばらじんじょうしょうがっこうふたつのがっこうがおかれました。

めいわりごろになると、きょういくだいなことがひとびとのあいだられてきました。そのためがっこうかよどものかずもふえてきて、こうしゃがせまくなってきました。なかじんじょうしょうがっこうも、いまなかのうきょうがあるしょに、いちかいてのこうしゃあたらしくてました。めい31ねん(1898)、やなぎにもしょうがっこうてられました。しかし、10ねんめい41ねん(1908)には、ふくろばらしょうがっこうとともに、なかしょうがっこうにまとめられ、それぞれがぶんきょうじょうとなりました。

やなぎぶんきょうじょうしんちくねんさつえいめい31ねん

(2) たいしょうだいがっこう

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たいしょうになって、なかむらじんこうもしだいにふえてきました。それにつれて、なかしょうがっこうどうすうおおくなって700めいをこすようになってこうしゃはせまくなり、ふるくもなってきていました。

そこで、たいしょうねん(1913)、げんざいなかしょうがっこうっているしょに、しんこうしゃてることになり、たいしょうねん(1914)写真しゃしんのようなりっこうしゃができました。そのころのなかむらすうは、650ぐらいありましたが、みんながちからあわせて、こうつだったということです。

なかしょうがっこうたいしょう13ねん頃)

たいしょうねん(1917)には、あたらしくろうまるぶんきょうじょうて、それまでのふくろばらぶんきょうじょううつしました。

ろうまるぶんきょうじょうたいしょう13ねんごろ

(3) しょうになってからのがっこう

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しょう20ねんせんそうわると、なかのしくみがおおきくわりました。がっこうせいも、しょうがっこうそつぎょうするとどうぜんが、ちゅうがっこうすすみ3ねんかんべんきょうする6・3せいになりました。そこで、なかにもしょう22ねんなかしょうがっこうこうしゃりて,6がっきゅう364めいせいなかちゅうがっこうたんじょうしました。そのいそいでこうしゃてられるなどして、しゃしんのようにしょうがっこうとしばらくとなあわせていました。

こうていひだりなかちゅうがっこう
みぎなかしょうがっこうしょう30ねんだい

しょう30ねんだいはいると、せんさいあとしまつがやっとわったせんだいは、けんないだけでなく、とうほくちゅうしんとしても、おおきくはってんしてきました。なかじんこうも、そのころからきゅうにふえはじめました。なかしょうがっこうどうすうも、1300めいにものぼり、いちがっきゅうにんずうが、60めいをこえるがくねんてきました。

なかしょうがっこう

そこで、しょう40ねん(1965)、げんざいろうまるしょうがっこうてられました。これには、なかしょうがっこうどうすうすくなくするためと、ひとびとのつよねがいがあったのです。

ろうまるしょうがっこう

そのでまで、ろうまるやなぎにあって、はんせいものながあいだいきひとびとに「おらががっこう」とだいにされてきたぶんきょうじょうは、しょう40ねんがつ(1965)になくなりました。そのろうまるぶんきょうじょうは、しょう46ねんにとりこわされました。また、やなぎぶんきょうじょうめい31ねん(1898)にてられてらい87ねんにもなりますが、げんざいやなぎようえんとして使つかわれています。

いっぽうなかちゅうがっこうせいすうえ、こうしゃぜまになったので、なかちょうあたらしいこうしゃをつくり、しょう44ねんてんしました。

なかちゅうがっこう

(ところで、なかじんこうはふえるいっぽうで520めいどうすうで、かいこうしたろうまるしょうがっこうも、10ねんには、1533めいにもふくれあがりました。そこで、しょう51ねんふくろばらしょうがっこうまれ、なかしょうがっこうろうまるしょうがっこうとから466めいどうせきしてきました。たまたまがっこうせいもんあたりが、袋原(ふくろはら)あざ小原(こばら)というめいだったので、ふくろはらふくろというと、ばらばらというをとって、袋原(ふくろばら)しょうがっこうづけられたそうです。

ふくろはらしょうがっこう

しょう56ねんには、せんだいりつふくろばらちゅうがっこうが、ふくろばらあざはたなかひがしに19763めいかいこうし、なかちゅうがっこうこうとなりました。

ふくろばらちゅうがっこう

しょう57ねんに、ろうまるしょうがっこうひがしがわはたのまんなかに、553めいどうすうひがしろうまるしょうがっこうかいこうしました。

ひがしろうまるしょうがっこう

いっぽうじゅうたくがふえつづけている西にしなかには、しょう58ねんに、722めいどうなかしょうがっこうからわかれて西にしなかしょうがっこうてられました。しんかんせんれっしゃのまどから、まあたらしいこうしゃがまじかにのぞまれます。いまでもあきには、まいにちのようにいえてられているので、こうしゃぜまになり、あたらしいがっこうひつようになるのは、そうとおさきのことではないとかんがえられます。

西にしなかしょうがっこう

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