だいしょう
なかふうぞくでんせつ

1、なか七夕たなばたまつり

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 ささのはさらさら のきばにゆれる
 おほしさまきらきら きんぎんすなご

いまはあまりみられなくなりましたが、この七夕たなばたうたのように、きれいにかざられたささたけが、なかまちどうりょうがわに、まるでのようにてられました。そのしたを、おとなもどもも、ゆかたをて、げたをはいて、ぞろぞろとあるきながら、よるおそくまで七夕たなばたたのしんだものです。

70ねんほどまえたいしょうのはじめ)から、なかまちでは、どこでもいえまえ七夕たなばたをかざっていたそうですが、しょう24ねん(1949)からは、なかしょうこうかいしゅさい七夕たなばたまつりが、せいだいにおこなわれるようになりました。そのころは、どうしゃもあまりとおらなかったので、みちりょうがわ七夕たなばたをかざっても、みんなであるいても、なんしんぱいもなかったのです。しかし、しだいにこうつうりょうおおくなってきたため、とりやめることになってしまいました。なか七夕たなばたまつりは、しょう36ねん(1961)までつづきました。

なかまちとおかざったたなばたしょう33ねん8がつ

2、でんせつ

(1) さねかたちゅうじょう

 みちのくへ
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へいあんだいのなかごろ、いまから、およそ1000ねんもむかしのことです。とうほくほうつのくに(みちのく)とよばれ、とてもさびしいいなかでした。また、はるがすみのころにみやこきょう)をしゅっぱつしても、しらかわせきふくしまけん)にくころには、もうあきかぜがふいているというほどとてもとおいところだったのです。でも、みやこひとびとは、けしきのすばらしいつのくにに、あこがれていました。こんえのちゅうじょうさねかたそんは、いちじょうてんのうにつかえる、たいへんくらいたかひとで、じんとしてもゆうめいでした。さねかたちゅうじょうも、みちのくにあこがれていたので、つのかみつのくにをおさめるちょうかん)になるようにめいじられたときは、たいへんよろこびました。そこで、はるばるつのくにへやってきたとわれています。

また、つぎのようなつたえもあります。

あるはなにでかけたさねかたは、にわかあめにあいました。そのとき
『さくらがり あめはふりきぬ おなじくは
 ぬるともはなの かげにかくれむ』
といううたを、よみました。どうせあめにぬれるのなら、さくらのはなしたでぬれようといううたですが、ひとびとは、「すばらしい」とほめました。けれども、ふじわらのこうぜいというしょどうめいじんは、「うたはうまいが、それをじまんするさねかたはおろかものだ」と、ひとびとのまえでけなしました。さねかたはおこって、こうぜいのかぶっていたかんむりをつかむと、にわげすててしまいました。そのころ、ひとのかんむりにをかけるのは、とてもぶれいなこととされていたのです。そのため、さねかたは、「つのかみになるように。」というてんのうめいれいで、つのくにへやってきたのだともわれています。

さねかたちゅうじょうはかとり

 うまからおちたさねかたちゅうじょう
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さねかたちゅうじょうつのくににやってきてから、3ねんたったあるのこと、さねかたは、まつやまがたけん)をきました。そのかえみちとりかさしままでときみちばたにじんじゃがあったので、なにをまつっているのか、むらびとにたずねました。どうじんであることをいたさねかたは、おまいりもせず、うまにのったままとおりすぎようとしました。そのときうまきゅうにあばれ、さねかたは、うまからふりおとされてしまいました。それをむらびとは、「かみさまのたたりだ。」とおそれました。さねかたは、そのときのけががもとで、とうとうなくなってしまいました。むらびとは、さねかたのようなぶんたかじんがなくなったことをかなしみ、ていねいにほうむりました。おはかは、とりめでしまにあります。また「わたしのほねを、やまがたにもおくってくれ。」というゆいげんで、やまがたとせやまにも、さねかたちゅうじょうのおはかがてられました。

(2)あこやのまつ

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さねかたちゅうじょうには、あこやというひめがいたということです。あこやひめは、かなしいさいごをとげたちちをしたって、きょうみやこからやまがたけん)まで、なんにちたびをし、ようやくとせやまにたどりきました。なくなったちちをとむらうために、とせやまでくらすことにけっしんしたのです。あこやひめは、うつくしいばかりでなく、ことをひくのがたいへんじょうずでした。あるはるよる、あこやひめは、ひとりでことをひいていると、ことのにまじって、ふえのこえてきました。「どなたですか。」とたずねると、まつのかげから、りっぱなわかものがあらわれ、「わたしはとせやまものです。ことのがあまりにうつくしいので、ついさそわれててしまいました。」とうと、すがたをしてしまいました。それからは、毎ばんのように、あこやひめがことをひくと、いつもふえのこえてくるようになりました。

ところがあるよるのこと、わかものいました。「じつは、わたしはとせやままつせいなのです。とりがわはしがこうずいながされてしまったので、はしのかけかえのためにわたしは、あすりたおされてしまいます。おわかれにまいりました。」あこやひめは、あまりにもとつぜんのことにおどろき、なきくずれてしまいました。

つぎいそいでとせやまにかけつけてみると、まつは、りたおされてしまったあとでした。そして、どうしてもうごかないまつに、むらびとたちは、こまっているところでした。ところが、あこやひめをしばっていたつなをにぎると、いままでびくともしなかったまつが、するするとうごいたので、むらひとたちは、とりがわまでまつはこぶことができたのだそうです。

あこやひめは、られたまつのあとに、あたらしいまつをうえました。おおきくなったそのまつは、あこやのまつとよばれるようになったということです。

(3)くびなしぞう

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せんだいはんに、へいというあいきのたつじんがいました。しんちょうが、わずかさんじゃく(やく1メ)しかなかったので、ひとびとは、さんじゃくへいとよんでいました。へいかたなは、ぶんのからだよりもながかったので、そとあるときは、かたなちいさなくるまをつけて、それをひきずってあるいていましたが、あいのうでは、すばらしかったそうです。かたなをぬいたりおさめたりするそのはやさは、にもまらず、おとしかこえなかったということです。 

あるときふくろばらのあるぶつどうに、ようかいがるといううわさがたちました。まいとおひとまえて、うなりごえをあげ、おどかすというのです。こまったひとびとは、さんじゃくへい退たいしてもらうことにしました。よるになり、くらやみのなかに、なにかうめきごえをあげてうごいているものへいは、かたなをふりおろしました。つぎあさ、ようかいのしょうたいったへいたちは、びっくりしてしまいました。ようかいはどこにもなく、いしのおぞうさまのくびが、ごろんとちていたのです。くびは、そのどうなったのかわかりませんが、ふくろばらには、くびなしぞうが、いまもたっています。

くびなしぞうふくろはら

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