第だい6章しょう
中なか田だのむかしと今いま

1 中なか田だの歴れき史し

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わたしたちの住すんでいる中なか田だ地ち区くは、古ふるくから「名な取とりの里さと」とよばれて、遠とおく都みやこにまで知しられていました。それで、中なか田だのあちこちには、名めい所しょや旧きゅう跡せきがたくさん残のこっています。これらの歴れき史しや伝でん説せつをいつまでもわすれないようにしようと願ねがって、地ち区くの人ひとびとが「名な取とりの里さと」ときざんだ石せき碑ひを中なか田だ六ろく丁ちょう目めの国こく道どう4号ごう線せんぞいに建たてました。しかし、こうした石せき碑ひやむかしのくらしのようすを伝つたえるものの多おおくが、見みすごされ、わすれられようとしていることは、とても残ざん念ねんなことです。そこで、今いまに残のこる中なか田だの歴れき史しをもう一いち度どほりおこして、わたしたちの先せん祖ぞをしのんでみたいと思おもいます。

「名な取とりの里さと」の碑ひ(中なか田だ六ろく丁ちょう目め)

(1) 古こ墳ふんのつくられたころ

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農のう業ぎょうセせンんタたーーの中なかに、金こん剛ごう寺じ貝かい塚づかみられます。大おおむかしは、そのあたりまで海うみが入はいりこんでいたわけです。人ひとびとは、高たか台だいに住すんで、魚さかなや貝かいをとったり、けものをつかまえたりしてくらしていたと思おもわれます。

やがて海うみの水みずがひいて中なか田だ地ち区くは陸りく地ちになりますが名な取とり川がわがたびたび大おお水みずになるので、なかなか人ひとは住すめませんでした。

名な取とり川がわに自し然ぜん堤てい防ぼう(土と地ちの小こ高だかくなった所ところ)がつくられると、これまでのじめじめした土と地ちは、水すい田でんにするのにてきとうな所ところとなりました。そこに人ひとびとが住すみつくようになったのが、今いまから2000年ねんほど前まえのことといわれています。そのくらしのあとが、遺い跡せきとして今いまほり出だされています。そのひとつが栗くり遺い跡せきです。

「栗くり遺い跡せき」に建たっている西にし中なか田だ小しょう学がっ校こう

この遺い跡せきは、現げん在ざい、西にし中なか田だ小しょう学がっ校こうの校こう地ちになっていますが、今いまからおよそ1300年ねん前まえのものといわれています。遺い跡せきが発はっ見けんされたのは、40年ねんも前まえのことですが、くわしい調しらべはしていませんでした。その後ご、西にし中なか田だの区く画かく整せい理りが始はじめられたため、3回かいにわたってくわしい調ちょう査さが行おこなわれました。そのけっか、18けんのすまいの跡あとと、たくさんの土ど器きなどがみつかりました。この土ど器きは「栗くり囲がこい式しき土ど器き」とよばれ、土ど器きの作つくられた年ねん代だいを決きめるもとになるものです。いっしょにほり出だされた紡ぼう錘すい車しゃ(糸いとをより合あわせる道どう具ぐ)は、この地ち方ほうが、そのころ、日に本ほんの中ちゅう心しんだった奈な良ら県けんなどともかかわり合あいをしめす大だい事じなものです。

栗くり遺い跡せき竪たて穴あな住じゅう居きょ跡せき出しゅつ土ど品ひん

(2)多た賀が城じょうがつくられたころ

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栗くり遺い跡せきと同おなじ年ねん代だいに、大和やまと朝ちょう廷てい(今いまの奈な良ら県けん地ち方ほう)は、宮みや城ぎ県けんの南なん部ぶに陸む奥つの国くにをつくり、その地ち方ほうの土と地ちや人ひとびとをおさめました。名な取とり川がわの向むかい側がわにある郡こおり山やま遺い跡せきは、そのころの大和やまと朝ちょう廷ていの役やく所しょのあったところではないかといわれています。

神じん亀き元がん年ねん(724)になって、大和やまと朝ちょう廷ていは、北きたの守まもりを固かためるために、役やく所しょを多た賀が城じょうにうつしました。この役やく所しょは国こく府ふとよばれていました。

多た賀が城じょうに国こく府ふがつくられてからも、東とう北ほく地ち方ほうの人ひとびとは、大和やまと朝ちょう廷ていにそむき続つづけました。そのため、朝ちょう廷てい側がわでは、名な取とり軍ぐん団だんとか玉たま造つくり軍ぐん団だんなどとよぶ軍ぐん隊たいをつくって、城じょう柵さくを守まもらせました。兵へい士しは、それぞれの土と地ちから集あつめられましたが、かり出だされた村むら人びとにとっては、さぞ大たい変へんな仕し事ごとだったろうと思おもいます。

郡こおり山やま遺い跡せき発はっ掘くつ調ちょう査さ(郡こおり山やま中ちゅう学がっ校こう付ふ近きん)

(3) 大おおきな舘たてがつくられたころ

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やがて、東とう北ほく地ち方ほうでの朝ちょう廷ていの力ちからが弱よわまってくると、地ち方ほうには、金かねや武ぶ器きを持もった者ものがあらわれてきました。その人ひとたちは、自じ分ぶんの土と地ちに城しろや舘たてをきずき、土と地ちの人ひとびとをおさめました。中なか田だ地ち区くには四し郎ろう丸まる館たて(善ぜん徳とく寺じ附ふ近きん)、前まえ田だ屋や敷しき(中なか田だ村むら神じん社じゃ附ふ近きん)、前まえ田だ舘たて(中なか田だ六ろく丁ちょう目め柿かき沼ぬまさん宅たく)の三みっつの舘たてがあったと伝つたえられています。

前まえ田だ舘たて跡あと(中なか田だ六ろく丁ちょう目め)

その中なかのひとつ、前まえ田だ舘たてについて、次つぎのような言いい伝つたえが残のこっています。

今いまからおよそ750年ねん前まえ、九きゅう州しゅうの中なか津つ川がわ義よし氏うじという人ひとが、わけあって前まえ田だに流ながされてきました。義よし氏うじの妻つまは、子こどもとおともの者ものを連つれて陸む奥つの国くにに向むかいました。とちゅう海かいぞくに会あい、妻つまだけがどうやら名な取とりの里さとにたどりつくことができたということです。後のち、ゆるされて帰かえる時とき、特とくに世せ話わをしてくれた人ひとに、柿かき沼ぬま忠ただ義よしの名なを与あたえて去さりました。現げん在ざい、前まえ田だ舘たての跡あとに住すんでいる柿かき沼ぬまさんは、その子し孫そんだということです。
同なじころ、板いた碑びといって、先せん祖ぞを供く養ようするための石せき碑ひがたくさんつくられました。特とくに、中なか田だから名な取とりにかけては、県けん内ないでも板いた碑びの多おおい所ところとして知しられています。板いた碑びは、河かわ原らから持もって来きた石いしに、安あん心しんして死しねることを願ねがうことばや、死しんだ人ひとのめいふくをいのることばをきざんで、寺てらや人ひと通どおりの多おおい道みちばたにたてたものです。以い前ぜんは、熊くま野の堂どうの大だい門もん山やまのやぶの中なかで、たくさんみられました。今いまでも、道みちばたでみかけることがあります。こうしたことは、そのころの人ひとびとのくらしが、信しん仰こうと強つよく結むすびついていたことをしめしています。

文ぶん化か財ざいとなっている雷いかづち古こ碑ひを今いまも大だい事じに守まもる人ひと々びと

(4) 仙せん台だい城じょうがつくられたころ

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慶けい長ちょう(1603)、伊だ達て政まさ宗むねは、それまで千せん代だいとよばれている地ち名めいを今いまの仙せん台だいと改あらためました。そして、青あお葉ば山やまに城しろをきずき、城じょう下か町まちをつくりました。城じょう下か(府ふ内ない)とよばれたのは、南みなみの方ほうでは河かわ原ら町まちまでで、長なが町まちや中なか田だは名な取とり郡ぐんの中なかに入はいっていました。そのころの中なか田だには、四し郎ろう丸まる村むら、袋ふくろ原ばら村むら、前まえ田だ村むら、柳やなぎ生う村むらの四よっつの村むらがありました。

江え戸ど幕ばく府ふが参さん勤きん交こう代たいというきまりをつくると、政まさ宗むねも江え戸どへ行いかなければなりません。そのため、道どう路ろを直なおしたり、休やすんだりとまったりするための宿しゅく場ばをつくったりする必ひつ要ようがでてきました。そこで、慶けい長ちょう17年ねん(1612)には長なが町まちに、次つぎの年ねんには中なか田だにそれぞれ宿しゅく場ばをつくりました。

中なか田だの宿やどは街かい道どうぞいに、今いまの中なか田だ堤てい防ぼうバス停てい留りゅう所じょあたりから南みなみへ四よん町ちょう十じゅう七なな間けん(およそ463メめーートとルる)の間あいだで、道みちの両りょう側がわに98軒けんの家いえが建たちならんでいたそうです。

宿しゅく場ばには、町ちょうをおさめるための役やく人にんや、下した働ばたらきをする人にん夫ぷなどの外ほかに、かごや馬うまも用よう意いしていました。また、旅たび人びとを相あい手てにする宿やど屋やや茶ちゃ屋やなどもありました。やがて、旅たびをする人ひとや町ちょうや近ちかくに住すむ人ひとびとのための店みせが、しだいに多おおくなって、現げん在ざいの中なか田だ商しょう店てん街がいのもとができたのです。このように、中なか田だの宿やどは、大だい名みょう行ぎょう列れつや旅たび人びとの行いき来きでにぎわっただけでなく、近ちかくに住すむ、村むらの人ひとびとの買かい物ものをする場ば所しょでもあったわけです。

 甘かん藷しょ翁おう 川かわ村むら幸こう八はち
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中なか田だ一いち丁ちょう目めに、宝ほう泉せん寺じというお寺てらがあります。この寺てらは、江え戸ど時じ代だいから続つづいていますが、入いり口ぐちに、甘かん藷しょ記き念ねん碑ひがたっています。この石せき碑ひは、中なか田だ一いち丁ちょう目めの川かわ村むらさんの先せん祖ぞの川かわ村むら幸こう八はち翁おうが江え戸ど時じ代だいの終おわりごろあたたかい地ち方ほうでしかとれないと言いわれていた「さつまいも」を、苦く心しんのすえ、東とう北ほく地ち方ほうで初はじめて作つくるのに成せい功こうしたことを記き念ねんしてたてられたものです。幸こう八はち翁おうは、明めい治じ2年ねんに82才さいでなくなりましたが、村むら人びとからは功こう績せきをたたえて、のちのちまで甘かん藷しょ翁おうとあがめられてきました。その後ご、さつまいもは、農のう家かでさかんにさいばいされるようになりました。これは農のう家かにとって大おおきなしゅう入にゅうになるとともに、ききんの時ときのそなえにもなったのです。この時ときから、中なか田だは、さつまいもとその苗なえの産さん地ちとして有ゆう名めいになりました。

川かわ村むら家に伝つたわる「甘かん藷しょ翁おう之の讃さん」

 四し郎ろう丸まるの生うんだ名めい画が家か 菅すが井い梅ばい関かん
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江え戸ど時じ代だいに、渡わたな辺べ華か山ざんや高たか久く靄あい崖がんと並ならんで南なん画が三さん大だい家いえの一ひと人りに挙あげられている菅すが井い梅ばい関かんは四し郎ろう丸まるの出しゅっ身しんです。梅ばい関かんは文ぶん化か年ねん間かん(1804~1818)に活かつ躍やくした画が家かで、遠とおく長なが崎さきまででかけて行いき、中ちゅう国ごく人じんの江こう稼か圃ほに南なん画がの勉べん強きょうをしました。彼かれは一いっ生しょうを独どく身しんで通とおし、いつもズずダだ袋ぶくろに絵えの道どう具ぐを入いれて旅たびをしたが、気き持もちが乗のってくると絵え筆ふでを走はしらせ、これを人ひと々びとに気き軽がるに与あたえていました。

現げん在ざい、仙せん台だい市し博はく物ぶつ館かんにある梅ばい関かんの山さん水すいの絵えは「帷かたびら梅ばい関かん」と呼よばれ有ゆう名めいである。墓はかは、新しん寺てら小こう路じの正しょう雲うん寺じにあり、「梅ばい関かん山さん人じん之の墓はか」の文も字じがきざまれています。

なお、四し郎ろう丸まる字じ渡わた道どうの菅すが井い市いち右衛え門もん氏しは梅ばい関かんの子し孫そんといわれています。

四し郎ろう丸まる小しょう学がっ校こうに掲かかげられてある
菅すが井い梅ばい関かんの肖しょう像ぞう画が

(5) 新あたらしい世よの中なかになって

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日に本ほんは明めい治じ維い新しん、(今いまからおよそ120年ねん前まえ)によって武ぶ士しの世よの中なかが終おわりました。その後ご、しばらくの間あいだは、世よの中なかのしくみがととのわなかったので、中なか田だ地ち区くの村むらのよび名なが何なん度どか変かわりました。明めい治じ22年ねん(1889)になって、四し郎ろう丸まる村むら・袋ふくろ原ばら村むら・前まえ田だ村むら・柳やなぎ生う村むらの四よっつの村むらがひとつになって、中なか田だ村むらが生うまれました。この地ち名めいは、名な取とりの里さとの中ちゅう心しんという意い味みをもっているのではないかとも言いわれています。その当とう時じは、陸りく前ぜんの国くに名な取とり郡ぐん中なか田だ村むらとよばれ、郡ぐん役やく所しょは長なが町まちに、村むら役やく場ばはいまの中なか田だ三さん丁ちょう目めにおかれました。

その後ご、昭しょう和わ16年ねん(1941)に、中なか田だ村むらは仙せん台だい市しに合がっ併ぺいしました。よび名なも、仙せん台だい市し中なか田だ町まち、仙せん台だい市し四し郎ろう丸まるというふうに変かわりました。

中なか田だ一いち丁ちょう目めにあった里り程てい標ひょう
明めい治じ22年ねんに建たてられた。

そのころ、中なか田だの人じん口こうは、5589人にんでした。ところが、中なか田だのあちこちに住じゅう宅たく地ちがつくられて、人じん口こうがどんどんふえ、現げん在ざいは、35000人にんにもなっています。このように住じゅう宅たく地ちができ、人じん口こうがふえるにつれて、学がっ校こうも次じつぎに建たてられました。現げん在ざい、この地ち区く内ないには、小しょう学がっ校こう5校こう、中ちゅう学がっ校こうが2校こうあります。人じん口こうのふえ方かたによっては、もっと学がっ校こうが建たつだろうと考かんがえられます。

昭しょう和わ23年ねんごろの長なが町まち・中なか田だのようす
大おお村むら栄さかえ著ちょ
社しゃ会かい科か指し導どうの記き録ろくより

藩はん政せい時じ代だいの長なが町まちは御ご城じょう下かの仙せん台だいとは、広ひろ瀬せ川がわをへだてた農のう村そんで野や菜さいの供きょう給きゅう地ちであったと同どう時じに、陸りく羽う街かい道どうの宿しゅく場ば町まちでもあった。それが昭しょう和わ3年ねん4月がつ仙せん台だい市しに合がっ併ぺいになると、次し第だいに工こう場じょう地ち帯たいとして発はっ達たつし、煙えん突とつがたち、すすやけむりによごれてしまった。
それが次し第だいに南みなみに延のび、新あたらしい建けん築ちくが段だん々だんとつぎ足たされていった。
名な取とり川がわは、去きょ年ねんの水すい害がいのあと。砂じゃ利りをとる舟ふね、トとラらッっクく、堤てい防ぼうに抱いだかれた畑はたけ。
下たごいをくむ牛ぎっ車しゃと馬ば車しゃが何なん台だいもそろって仙せん台だいに出でかけていく。馬ば車しゃと牛ぎっ車しゃと、どちらが多おおかったのだろう。
川かわを渡わたってすぐの向むかい河かわ原ら部ぶ落らくは街かい道どうにそった集しゅう落らくである。かじや、荷に車ぐるま製せい造ぞうの小ちいさな工こう場じょう、野や菜さい集しゅう荷かの事じ務む所しょ、こうしたものが目め立だつ、仙せん台だいへの野や菜さい供きょう給きゅう地ちであった昔むかしの長なが町まちのはたらきを、いまは中なか田だがはたしている。

米こめつくり絵え馬ま
種たねまきから収しゅう穫かくまでの作さ業ぎょうを描えがく

文ぶん政せい5年ねん名な取とり郡ぐん四し郎ろう丸まる村むら絵え図ず

2 しだいにふえてきた学がっ校こう

(1) 明めい治じ時じ代だいの学がっ校こう

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江え戸ど時じ代だいが終おわって、明めい治じの世よの中なかになると、教きょう育いくの仕し方かたも大おおきく変かわりました。それまでは、ある一いち部ぶの人ひとしか入はいれなかった寺てら子こ屋やはやめて、どんな人ひとでも入はいることのできる、学がっ校こうをつくることになりました。中なか田だには、三十九さんじゅうきゅう番ばん小しょう学がっ校こう、四十よんじゅう番ばん小しょう学がっ校こうの二に校こうが建たてられました。それは、明めい治じ6年ねん(1873)のことです。三十九さんじゅうきゅう番ばん小しょう学がっ校こうは四し郎ろう丸まる村そんに、四十よんじゅう番ばん小しょう学がっ校こうは、前まえ田だ村むらの宝ほう泉せん寺じの建たて物ものをかりて始はじめたのです。これが、中なか田だの学がっ校こうのはじまりです。

宝ほう泉せん寺じ(中なか田だ一いっ丁ちょう目め)

そのころの四十よんじゅう番ばん小しょう学がっ校こうの児じ童どう数すうは100人にんぐらいだったそうですが、ほんとうに学がっ校こうに通かよったのは、それほど多おおくなかったようです。勉べん強きょうすることも、読よみ、書かき、そろばんが主おもで、寺てら子こ屋や時じ代だいとあまり変かわっていません。

明めい治じ10年ねん(1877)になって、建たっている場ば所しょが変かわり、校こう名めいを、三十九さんじゅうきゅう番ばん小しょう学がっ校こうが啓けい蒙もう小しょう学がっ校こうに、四十よんじゅう番ばん小しょう学がっ校こうは止し善ぜん小しょう学がっ校こうと改あらためられましたが、その後ご、学がっ校こうは地ち名めいで呼よばれるようにかわりました。

明めい治じ22年ねん(1899)には、新あたらしく市し町ちょう村そん制せいがしかれました。中なか田だ地ち区くでも、柳やなぎ生う、前まえ田だ、袋ふくろ原ばら、四し郎ろう丸まるの四よっつの村むらがひとつにまとめられて、中なか田だ村むらとなりました。村そん内ないには、中なか田だ尋じん常じょう小しょう学がっ校こうと、新あたらしく明めい治じ17年ねん(1884)に建たてられた袋ふくろ原ばら尋じん常じょう小しょう学がっ校こうの二ふたつの学がっ校こうがおかれました。

明めい治じも終おわりごろになると、教きょう育いくの大だい事じなことが人ひとびとの間あいだに知しられてきました。そのため学がっ校こうへ通かよう子こどもの数かずもふえてきて、校こう舎しゃがせまくなってきました。中なか田だ尋じん常じょう小しょう学がっ校こうも、今いまの中なか田だ農のう協きょうがある場ば所しょに、一いち部ぶが二に階かい建だての校こう舎しゃを新あたらしく建たてました。明めい治じ31年ねん(1898)、柳やなぎ生うにも小しょう学がっ校こうが建たてられました。しかし、10年ねん後ごの明めい治じ41年ねん(1908)には、袋ふくろ原ばら小しょう学がっ校こうとともに、中なか田だ小しょう学がっ校こうにまとめられ、それぞれが分ぶん教きょう場じょうとなりました。

柳やなぎ生う分ぶん教きょう場じょう新しん築ちく記き念ねん撮さつ影えい(明めい治じ31年ねん)

(2) 大たい正しょう時じ代だいの学がっ校こう

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大たい正しょうになって、中なか田だ村むらの人じん口こうもしだいにふえてきました。それにつれて、中なか田だ小しょう学がっ校こうの児じ童どう数すうも多おおくなって700名めいをこすようになって校こう舎しゃはせまくなり、古ふるくもなってきていました。

そこで、大たい正しょう2年ねん(1913)、現げん在ざい中なか田だ小しょう学がっ校こうが建たっている場ば所しょに、新しん校こう舎しゃを建たてることになり、大たい正しょう3年ねん(1914)写真しゃしんのような立りっ派ぱな校こう舎しゃができました。そのころの中なか田だ村むらの戸こ数すうは、650戸こぐらいありましたが、みんなが力ちからを合あわせて、工こう事じを手て伝つだったということです。

中なか田だ小しょう学がっ校こう(大たい正しょう13年ねん頃)

大たい正しょう6年ねん(1917)には、新あたらしく四し郎ろう丸まる分ぶん教きょう場じょうを建たて、それまでの袋ふくろ原ばら分ぶん教きょう場じょうを移うつしました。

四し郎ろう丸まる分ぶん教きょう場じょう(大たい正しょう13年ねん頃ごろ)

(3) 昭しょう和わになってからの学がっ校こう

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昭しょう和わ20年ねんに戦せん争そうが終おわると、世よの中なかのしくみが大おおきく変かわりました。学がっ校こうの制せい度ども、小しょう学がっ校こうを卒そつ業ぎょうすると児じ童どうの全ぜん部ぶが、中ちゅう学がっ校こうに進すすみ3年ねん間かん勉べん強きょうする6・3制せいになりました。そこで、中なか田だ地ち区くにも昭しょう和わ22年ねんに中なか田だ小しょう学がっ校こうの校こう舎しゃを借かりて,6学がっ級きゅう364名めいの生せい徒とで中なか田だ中ちゅう学がっ校こうが誕たん生じょうしました。その後ご、急いそいでバばラらッっクく校こう舎しゃが建たてられるなどして、写しゃ真しんのように小しょう学がっ校こうとしばらく隣となり合あわせていました。

校こう庭ていの左ひだりが中なか田だ中ちゅう学がっ校こう、
右みぎが中なか田だ小しょう学がっ校こう(昭しょう和わ30年ねん代だい)

昭しょう和わ30年ねん代だいに入はいると、戦せん災さいの後あとしまつがやっと終おわった仙せん台だい市しは、県けん内ないだけでなく、東とう北ほくの中ちゅう心しん地ちとしても、大おおきくはってんしてきました。中なか田だ地ち区くの人じん口こうも、そのころから急きゅうにふえ始はじめました。中なか田だ小しょう学がっ校こうの児じ童どう数すうも、1300名めいにものぼり、一いち学がっ級きゅうの人にん数ずうが、60名めいをこえる学がく年ねんも出でてきました。

中なか田だ小しょう学がっ校こう

そこで、昭しょう和わ40年ねん(1965)、現げん在ざいの四し郎ろう丸まる小しょう学がっ校こうが建たてられました。これには、中なか田だ小しょう学がっ校こうの児じ童どう数すうを少すくなくするためと、地ち区くの人ひとびとの強つよい願ねがいがあったのです。

四し郎ろう丸まる小しょう学がっ校こう

そのでまで、四し郎ろう丸まると柳やなぎ生うにあって、半はん世せい紀きもの長ながい間あいだ地ち域いきの人ひと々びとに「おらが学がっ校こう」と大だい事じにされてきた分ぶん教きょう場じょうは、昭しょう和わ40年ねん3月がつ(1965)になくなりました。その後ご、四し郎ろう丸まる分ぶん教きょう場じょうは、昭しょう和わ46年ねんにとりこわされました。また、柳やなぎ生う分ぶん教きょう場じょうは明めい治じ31年ねん(1898)に建たてられて以い来らい87年ねんにもなりますが、現げん在ざいも柳やなぎ生う幼よう児じ園えんとして使つかわれています。

一いっ方ぽう、中なか田だ中ちゅう学がっ校こうも生せい徒と数すうが増ふえ、校こう舎しゃが手てぜまになったので、中なか田だ五ご丁ちょう目めに新あたらしい校こう舎しゃをつくり、昭しょう和わ44年ねんに移い転てんしました。

中なか田だ中ちゅう学がっ校こう

(ところで、中なか田だ地ち区くの人じん口こうはふえる一いっ方ぽうで520名めいの児じ童どう数すうで、開かい校こうした四し郎ろう丸まる小しょう学がっ校こうも、10年ねん後ごには、1533名めいにもふくれ上あがりました。そこで、昭しょう和わ51年ねんに袋ふくろ原ばら小しょう学がっ校こうが生うまれ、中なか田だ小しょう学がっ校こうと四し郎ろう丸まる小しょう学がっ校こうとから466名めいの児じ童どうが移い籍せきしてきました。たまたま学がっ校こうの正せい門もんあたりが、袋原(ふくろはら)字あざ小原(こばら)という地ち名めいだったので、袋ふくろ原はらの袋ふくろという字じと、小こ原ばらの原ばらという字じをとって、袋原(ふくろばら)小しょう学がっ校こうと名なづけられたそうです。

袋ふくろ原はら小しょう学がっ校こう

昭しょう和わ56年ねんには、仙せん台だい市し立りつ袋ふくろ原ばら中ちゅう学がっ校こうが、袋ふくろ原ばら字あざ畑はた中なか東ひがしに19クくラらスす763名めいで開かい校こうし、中なか田だ地ち区くに中ちゅう学がっ校こうが二に校こうとなりました。

袋ふくろ原ばら中ちゅう学がっ校こう

昭しょう和わ57年ねんに、四し郎ろう丸まる小しょう学がっ校こうの東ひがし側がわ、田た畑はたのまん中なかに、553名めいの児じ童どう数すうで東ひがし四し郎ろう丸まる小しょう学がっ校こうが開かい校こうしました。

東ひがし四し郎ろう丸まる小しょう学がっ校こう

一いっ方ぽう、住じゅう宅たくがふえ続つづけている西にし中なか田だには、昭しょう和わ58年ねんに、722名めいの児じ童どうが中なか田だ小しょう学がっ校こうからわかれて西にし中なか田だ小しょう学がっ校こうが建たてられました。新しん幹かん線せんの列れっ車しゃのまどから、ま新あたらしい校こう舎しゃがまじかにのぞまれます。今いまでも空あき地ちには、毎まい日にちのように家いえが建たてられているので、校こう舎しゃが手てぜまになり、新あたらしい学がっ校こうが必ひつ要ようになるのは、そう遠とおい先さきのことではないと考かんがえられます。

西にし中なか田だ小しょう学がっ校こう

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