第1章
高舘山に登って

柳生より高舘山を望む
わたしたちの住んでいる中田地区から、西の方をながめるとなだらかな山の上に、こんもりと杉の木のしげったところが見えます。そこが、むかしから信仰の山として人びとにしたしまれてきた高舘山です。
高舘山は、別の名が「舘山」ともいわれ、山の上には、熊野那智神社がまつられてあります。
山の中腹にある、舘のあとを見るため、ある日曜日に高舘山をたずねてみました。
山のふもとには、吉田とよばれる集落があり、その町の中央には、高舘山に通じる赤い大きい鳥居があります。ほそうされた坂道をしばらく上っていくと、むかしの高舘山の登り口にたどりつきます。
道ばたにさきみだれる山ゆりをながめながらすすんでいくと、道はだんだんせまくなり、背たけほどの深い雑草が生いしげり、歩くことも大変になってきます。

中田中学校屋上より高舘山を望む
とちゅう立ちどまり、道の上の方を見ると、草むらの中に、あまり広くもない平らなところが見えます。ここが、むかし舘のあったところということがわかりました。
舘あとから、さらに坂道を進むと、前の方が急に明るくなり、ひらけてきます。熊野那智神社へ通じる新道です。
もうすぐ高舘山の頂上です。道の両側に立ちならぶ赤松林を過ぎると、近くに熊野那智神社が見えてきます。
きれいにそうじされてある熊野那智神社の一帯は、公園として整えられ、おとずれる人も多くなっているということです。
神社の南側には、植えこみが美しい広場があります。広場にある展望台からながめる名取平野は、まるでパノラマのようです。田んぼや畑の広がる中に、赤や青などの屋根が点々と見え、こい緑をした屋敷もりの間を用水路があみの目のように流れています。
北よりに目をうつすと、ひとすじの大きな川が見えます。この川が中田地区に住むわたしたちのくらしにとても大事な名取川です。
この名取川は、秋保町の二口峠から流れだし、東へ東へと流れ、閖上から太平洋にそそぐ、長さ55キロメートルの川です。
名取川は、むかしから水の量がゆたかできれいなことで知られ、たくさんの人が、うたにもよんだほどの川です。そして人びとの生活にも大切なはたらきをしてきました。
わたしたちの中田地区は、この名取川の南側にあり、西の方から、西中田、中田、袋原、四郎丸、東四郎丸の五つの学区からできています。東西8キロメートル、南北2キロメートル、面積11.87平方キロメートルの東西に細長い形となっていて、やく35000人の人びとが住んでいます。

高舘山より「中田の里」を眺める
ちかごろは、田や畑がしだいに宅地になり、そこには学校や新しい家が建ちならんで、日一日と中田の里が変わってきています。
また、昭和57年6月に開業した東北新幹線の高架橋を中心に東北本線や仙台バイパス、国道4号線が南北にならんで走っており、わたしたちの生活の上で大きな働きをしています。
はるか南東の方向には仙台空港もみられますが、外国の飛行機の乗り入れや、その大型化にともなっての滑走路延長も計画されています。
さらに目を遠くにうつすと、白い波の打ちよせる砂浜と、緑の松林の続く海岸線が、金華山や牡鹿半島から相釜まで弓なりに見えます。
この名取平野は、宮城県内でも気候があたたかく、冬でも雪が少ないところなので、生活もしやすく、むかしから多くの人びとが住んでいました。
貝塚や古墳、住居跡、神社、お寺などが数多くあるのもそのためです。なかでも、とくに有名なのは、東北一の大きさをもつ名取市にある雷神山古墳や、高舘にある横穴式古墳群でしょう。
また、高舘の農業センター内にある金剛寺貝塚や愛島にある実方中将の墓などは、むかしを知る上で大事なものです。
中田地区にも栗遺跡や安久東遺跡、後河原遺跡や戸の内遺跡などがあります。

安久東遺跡発掘調査

後河原遺跡と西中田小の発掘体験学習
「汲みて知れ心の水も落合の 波間をわけて深きめぐみは」と歌によまれた第三十一番札所である落合観音堂などは有名です。
このほか、古墳やお寺、神社、名木なども多く、それにまつわる伝説や伝承も数多く残っています。名取老女の話は、ひとつのよい例です。
また、地名の中で、むかしからの言い伝えで名づけられたものや、その土地に住んだと思われる人の名前をとって、地名にされたといわれるものもあります。